SSサンプル/名前も知らない彼女

ふらりと入ったバーに、飲みつぶれた女性がいた。

このまま放ってキールロワイヤルを頼んでもいいけれど、周囲にはタチの悪そうな男性の姿も見えたので、私は友人のふりをしてぽんと肩を叩く。


「もう、世話が焼けるんだから」

「んん……ん? ええ?」

「店員さん、お会計お願いします」


酔っ払っている彼女は私を友人だと勘違いしたのか「えりちゃん」と何度も呼びながらくっついてくる。


私はカスミだっつーの。


えりちゃんになりすました私は、彼女を抱えながらスマホで呼んでおいたタクシーに一緒に乗り込み「ねえ、家はどこ? 住所言える?」と問いかける。

回らない呂律で教えられた住所は、うまく聞き取れていたなら多分、私の近所。

飲みにきたはずだというのに私は彼女を家まで送り届けようと来た道を戻ろうとしている。


放っておけなかった。

それに、ひどく魅力的だったから。


いや、放っておけなかったは言い訳で、魅力的だったという欲に負けたのかもしれない。

「えりちゃん」と私を呼ぶ彼女の顔は酔いがまわり真っ赤で、持っていたペットボトルの水を飲ませながら「私はえりちゃんじゃない」といつ言おうかタイミングを伺っていた、のだが。


「えりちゃん、大好き」


その一言で私はえりちゃんとして最後まで彼女を見送ろうと決めた。

えりちゃんにも彼女にも悪いけれど、カスミが出てくることで生じるのは亀裂かもしれないから。


「着いたよ。ほら、立てる?」

「んあー! 私の家じゃーん。へへ、また送ってくれたのおー?」


この子、いつも酒癖悪いのか、とその一言から伺える。

ならば今日の記憶もどうせ忘れちゃうんだろうな、とえりちゃんのフリをしてちゅっと口づけをした。この記憶が翌日消えていなかったら、それはそれで背徳感があって面白いしね。


なんて悪いことを考えながら「またね」と名前も知らない彼女を見送った。

TATUMI

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